Soul Voyage

雑記です。

癌を克服した後、書いて出さなかった毒親と家族への決別の手紙

 

○○家の皆さんへ

 
ある大家族のドラマを好きで見ていました。
娘の誕生日に父親が突然亡くなり、哀しみにくれる中、実は愛人がいて隠し子までなしていたことや、会社の資金を使い込み破産寸前だったことなどが次々に明るみに出る中、それでも家族で乗り越えて行く話です。
 
お互い好き放題言い合ったり、時には激しく喧嘩しあいながらも、いつもそこには愛がありました。
 
それを見ながらふと考えました。○○家には一切なかったと。
少なくとも私が、そのドラマでみた愛は、私が一生受け取ることの出来ない物でした。
 
確かに私は酷い子供でした。手のつけられない山火事のような気性だったのは自分でも分かります。
周りからみたら好き放題して何を言ってやがると思われることでしょう。
 
そう見えたとしても、いつも怯え、不安で、不満を抱え、周りの顔色を伺い、場の雰囲気を変えるためにふざけて踊ったり、くだらないことを言っていたなんて思いもしなかったでしょうね。
自分の居場所も、自分が何なのかも、何をしたいのかも、何に怒っているのかも分からず、ただ何十年もの間もがき続けていました。
 
早くこの人生を終わらせたい、こんなDNAを残してはならない、生きている価値すらない人間だとずっと思っていました。だから、最初に余命宣告を受けた時には、正直ホッとしました。
これもご存知ないと思いますが、余命宣告を受けたのは一度だけではありません。
 
 
 
一度でもいいから、愛されたかったし理解して欲しかったです。
正直なところ、これまで私は一度たりとも家族の一員だと感じたことはありませんでした。
だから「捨て子だった」と母から言われた時は納得してしました。
 
嫁姑戦争でいびり倒されていた母は私に向かって憎々しげに『○○はお婆ちゃんそっくり』『橋の下から拾ってきたんだから、あんまり可愛げがないとまた捨ててくるよ』など吐き出しました。特に祖母に似てる云々の下りはと何度も言われました。
外見に関しても幾度となく否定され、一度も容姿に自身がもてたことはありませんでした。やる事為す事否定され、価値のない人間だとも思うようになりました。
後になってこの話をした時に覚えてないとのことでしたが、傷は何年経ても癒える事なく私を蝕みました。
 
外から帰ってきて、夕方なのに灯りもつけず薄暗い部屋で、母から泣きながら自殺を考えている話をされたときは、不安なんてものではありませんでした。
 
子供の頃、本当に幼稚園に入るか入らないかの頃から悪夢以外を見たことがなく、それが普通なのだと、つい最近まで思っていました。悪夢の内容は決まって、嵐、核戦争、お化けや怪物に追われる夢、祖母を殺す夢、どこにもたどり着けないといったもので、うなされて起きる事もしばしばでした。
 
思い出せる限り、夢の内容を調べてみましたが、全て、ストレス、抑鬱、不安、そういったものに関連するものばかりでした。
 
 
これでも、まだ私がどんな思いでいたのかは分からないかもしれないので個別にも伝えたいことがあります。一応書きます。
 
 
 

兄さんへ

 
はっきり言って、血の繋がっただけの他人以上に感じたことがありません。
1番覚えていることは、お婆ちゃんがアルツハイマーだと分かった時、まだ小学生か中学生ぐらいだった私はどういった病気かよくわからなかったけど、ともかく健康を害した事だけは分かったのでだから「入院すればいいのに」と入院すれば治ることを期待して言いました。貴方は祖母を施設に追いやればいいのにという内容と勘違いしたようで、嫌悪感を露わに語気も強く私を否定しました。
 
貴方はいつもそう上からでしたね。
自分が1番幸運な事に気付いてましたか?早くから親元を離れていたので自分を殺さずに済んだのです。その分、罪悪感と長男という事で甘やかされてましたから余計に私の苦しみや挫折なんて想像もしなかったでしょうね。ましてや自己否定を刷り込まれることがどういった事かなんて思いもしないでしょう。
だから、貴方が友達を沢山作れたのは至極当たり前のことではありますが、内心かなり驚きました。
何故なら、たまに実家に帰った際は父親や祖母を見習って母親を見下し、私を侮蔑し、感情なんて一切ないのだと思ってましたから。
一度、貴方の友人から貴方が私を心配していると聞き、嬉しく思った反面、どちらかというと意外すぎて非常な驚きでした。いつも私の存在を恥じているのが言動に出てましたから。
 
私が離婚や精神崩壊、数度の癌と闘っている最中、一度も見舞う言葉など頂きませんでしたので何も期待はありませんでしたが、仕上げは、Facebookからの私のメッセージを全く無視されたことでした。やはり所詮他人なのだと痛感しました。
貴方の職場のHPで偉い役職とともに20年ぶり近くに見た貴方の顔には、やはり他人以上のものを感じる事はありませんでした。
 
従兄弟の家で寝ている間に服を何度も脱がされたり胸をまさぐられたことは、貴方の父親がしたことと同様、私にとって正常な恋愛が困難になったことだけは伝えておきます。
 
 

姉さんへ

 

私は貴女のお陰で、同性が陰険で恐ろしいことを学び、初めて自分が他人から嫌われる存在であることを知りました。
その甲斐あって激しい山火事のようだった私の気性は鎮火し、何十年も草の生えない土地のように虚しいものとなりました。
才能があったのに夢を諦め、いかにも正当な理由をつけてどうでもいい大学に入り、そこそこ有名な会社で無難なOLになり、○○という男を夫にを選んだのも、自分は幸せになる権利なんて持っていないと思っていたからです。そうさせたのは、母さんと貴女でした。
 
なぜか。
いつもそうだったように、私が夢を叶えたときの貴女の鬼の形相を想像するのが恐ろしかったからです、
 
貴女の事で真っ先に思い出すのは、利用された事と八つ当たりされた事です。
貴女や母から頼まれれば、お人好しに何時間もかけて遥々手伝いに出かけたりすることはありましたが、私が助けを求めているときは、大抵の場合は迷惑そうに拒否されました。私が本当に誰かの支えが欲しくて連絡する時には、嫌々そうにさっさと電話を切られて悲しかったのを覚えています。
 
確かに、私の頼みや悩みは頼っていいものではなかったかもしれません。生死の相談や、親から受けた虐待の悩みなんて。でも、私の気持ちを考えてくれたことはありましたか?恐らくないと思います。
保育園から小学校中学年まで、女の貴女が私に押し入れでしたことはいつ思い出しても吐き気を催しました。ただでさえ男性を嫌悪する土台が出来上がっていたのに、女性すらも嫌悪の対象になり、さらに恐怖対象になったのですから。
姉さんや母さんを基準に考えるため女性には何かしら裏があると常々思うようになっていたからです。
 
貴女にとって私は単に気が強くて図々しい、目障りな存在でしたよね。特に中高生のときは。運動で入賞したこと、貴女より良い進学校へ行った事。母さんが比較するため余計に不愉快だったのでしょう。自分の家ですら毎日が針のむしろのようでした。
ともかく、貴女のことがあったから、何かあっても誰かに相談することは辞めました。無駄なことだと分かったからです。
それでも、夫と別居する際に同行してくれたことは感謝しています。
 
 

父さんへ

 
男性に対する嫌悪感はずっと続いていました。
従兄弟宅に泊まりに行った際、寝ている間に何度も兄に服を脱がされたり、母さんは性的行為は全て汚らわしいものと教えていたし、近所のオジさんや学校の担任に悪戯されたり、幼稚園児のときから貴方の娘から性行為の真似事を何度もされていたので、どれが原因なんてないのですけど。
 
母さんがいつも被害者ぶってすぐ感情的に訴える時に冷静でいてくれたことは感謝しますが、妻である母さんをもう少し女性として大切にして欲しかった、傍観者としてではなく、きちんと母さんや私達とコミュニケーションをとって欲しかったと思います。
妻の心の寂しさや不満、苛立ちは夫にしか埋められませんし、結局それが全て子供、我が家の場合は私へと吐き出されていたので…。
 
よく、親は打ち出の小槌じゃないんだ、と仰ってましたが、打ち出の小槌だと教えたのは貴方がたです。私がいうことは正論であっても「屁理屈を言うな」で終わらされてしまうのですが。
 
バイトしたいと行った時も、勉強さえしていればいいとお小遣いをくれる。
学生にリミットなしのゴールドカードを持たせる。
普通なら金銭感覚狂って当たり前です。
 
来世は、お金よりももっと大切なことがあると、来世の貴方の子供に教えてあげてください。
子供は、転んでも立ち上がれること、いつでも羽を休められる安心な存在が見守っていてくれることを知っていれば、また強く羽ばたいていけるものです。
 
何よりも自分の子供や孫へ性的関心を向けるのは絶対やめてください。
 
それでも大学に行かせてくれた事はとても感謝しています。そして経済的にずっと迷惑を掛けてしまっていた事がとても心苦しかったです。
最後まで私のことをどう理解してくれていたのか結局分からず仕舞いなのが残念です。
 
 

最後に母さんへ

 
一度でいいから、駄目な部分も含めて私を私として愛して欲しかったです。否定しないで欲しかったです。苦しい時はただ、そばにいて支えて欲しかったです。
母さんが得意げな顔をするときは、経済的援助が出来るとき。毎回ここぞとばかりに何かしら言う事を聞かせるための条件を出せるし、さらに過去の話を持ち出しては執拗に責めることが出来たからというのは気づいてました。
 
私が拒絶したと言いますが、いつも憎悪感を向けられていたのに、ある日突然気が向いたからと抱きしめられても受け入れられる筈がありません。私以外が叩かれているのは見た事ありませんし、学校の先生にうっかり話してしまった時は、二度度言うなと強く口止めしましたよね。
暴力や暴言で従わせる夫が一時的に正気に戻って謝罪しても信じられないのと同じと言えば分かりやすいでしょうか。
 
一番辛かったのは、癌と診断され、余命半年と告知されたときのことです。当時は労働基準法に反する労働をさせられていました。会社側に診断とともに、これまでと同じような無理な働き方は無理ですと通達した直後、解雇されました。
解雇された後、震える声で母に電話した私にかけられた母の最初の言葉は「会社に謝りなさい」でした。
身体をいたわる言葉は最後まで一切ありませんでした。
 
 
それと、余計なお世話ですが父さんを、男性を軽蔑しないであげて下さい。
貴女の屈折した被害者ぶりや、貴女から始終否定されたことは、私の恋愛にも影響しました。恋愛でも相手の些細なところを責めたり、条件でのみ選んだり、自分に相応しくなく不幸にする相手ばかりを選んだり。
貴女にされたこと、貴女がしていたことをそのままに行動している自分に気づいてはいつも愕然とするのでした。
何より、愛してくれる人は存在自体が有り得ないため、私の幸せを心から願ってくれる相手に出会っても嫌悪感を抱き拒否してしまう結果になりました。
 
前にも言いましたが、母さんは被害者ではありません。他人の気持ちを察してあげられるのは、優しく素晴らしい事ですが、他人の感情に左右されて自分を無駄に犠牲にするのは建設的ではありません。特にそれが必要とされてもいない時に、です。
自分を楽観的だと思っているようですが、この上なく悲観的です。自己憐憫の塊です。
これ以上、自分の人生の選択を誰かのせいにしたり、不必要に自己否定しないで下さい。聞いてる方が苦しくなります。
 
『どうせ私が悪いんでしょ』
 
聞き覚えありますよね?貴女の口癖です。いつの間にか私もそれを真似ました。兄弟の中で私ばかりを選んで否定していたのですから、当然といえば当然ですよね。
この植え込まれた思い込み、人生も半分を終えたころにようやく取れてきましたが自信の無さ、他人から否定されることの恐怖心がいまでも付きまといます。
 
 
貴女もいまやお祖母さんです。せめて孫ぐらいには手放しで愛情を与えてあげてください。貴女のことですから、きっと今でも自分の子育て論を押し付けては、否定され「良かれと思ってやってあげたのに」と泣いているのでしょう。自分の悲観論や価値観を押し付けないで下さい。束縛しないでください。そして必要以上に自分勝手に他人に期待して勝手に失望しないであげて下さい。来世でもいいので愛情を与えて自由にすることを学んでください。
 
 
お元気で